Active Feeling

ACTIVE DESIGNの日常やその時に感じたことなどを書いていきたいと思います。
プラハ・ブルノ・ウィーン 東欧建築の旅 プラハ編
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モルダウ川の向こうにプラハ城を見る(プラハ・カレル橋より)



サカイリブデザインコンペ2011で優秀賞をいただき、恒例の建築ツアー参加権を今回もゲットすることができまして、4月13日〜19日、チェコとオーストリアへ建築三昧の旅に行って来ました。オーストリアには、20年以上前に一度行ったことがありましたが、チェコは今回が初めてで、かなりディープな建築の旅となりました。

また、建築家古谷誠章氏、デザイナー小坂竜氏をはじめ、鈴野浩一氏(トラフ建築設計)や藤江和子氏など、錚々たる面々とともに1週間を過ごさせていただき、またまた刺激をたくさん受けて帰ってまいりました。

Face Bookではリアルタイムでアップしていたものの、ほとんど詳しい説明はできていませんでしたので、少し説明を加えながら、スケジュールに沿って今回の旅を総括したいと思います。


4月13日(金)

成田を11:15発のオーストリア航空で出発する予定が、2時間ほど遅れ、13:00過ぎにようやくウィーンに向けて飛び立った。その日はプラハに宿泊の予定なので、ウィーンでプラハへの便に乗り換えるはずだったのが、当然2時間も遅れれば乗継便には間に合わず、急きょバスに5時間揺られて国境を越えるというハプニングで幕を開けた1日目。結局プラハに着いたのは夜中の1:30ごろだった。


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プラハでの宿泊先、モーベンピックホテルプラハ。


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このホテル、朝食はかなりよかった。

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町並みを見ても、そこにいる人々を見ても、旧共産圏のイメージはほとんどない。



4月14日(土) プラハ

さて、ハプニングはあったものの、一夜明けた一発目は、この旅の目玉の一つである

◆MUELLER House:by Adolf Loos 1930
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アドルフ・ロースは、「装飾は罪悪」で有名なオーストリアの建築家。このミュラー邸では外部装飾を抑え、内部空間の豊かさを追求した「ラウムプラン」と呼ばれる室内構成を追求している。

内部の撮影が禁止されていたので、外観の写真しかお見せできないのが残念だが、実際に外観からは想像できない、複雑な内部構成になっており、「装飾は罪悪」というほど内部はシンプルではない。コルビュジェやミースの唱えたモダニズムの思想とは一線を画したもののようだが、アールデコの時代に、しかもプラハという土地で、「装飾は罪悪」を主張したその意味は、建築家の美意識よりも住まい手の在り様を優先するということらしいと知り、それはこの旅による新たな発見だった。


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ミュラー邸は、プラハ城やプラハの街を見下ろす高台の閑静な住宅地にある。
施主はロースの友人で、3人家族のセカンドハウスだったようだ。


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玄関もこじんまりとしていて、外部はシンプルそのもの。


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今回、古谷誠章先生のご友人であるスラペタ教授がプラハの街をいろいろと案内して下さいました。


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早稲田大学建築学科の教授でもある古谷誠章先生と。


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建築ジャーナリストの淵上正幸さんとは、かれこれ4回目の旅。



<Garden City Ořechovka>

◆House of Architect :by Jaroslav Vondrák 1924
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◆Brick Artist's Colony:by Pavel Janák 1924
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◆プラハ工科大学建築学科:by Alena šrámková 2005-2010
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<プラハ城>

◆プラハ城オランジュリー:by Eva Jiricna 1999
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◆聖ヴィート大聖堂:ゴシック建築 by Mathias from Arras and Peter Parler
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お城の中にある教会は珍しいそうで、プラハ城にはこのほか聖イジー教会、宮殿、庭園、尖塔などが含まれる。プラハ城の周辺「プラハ歴史地区」一帯が世界遺産として登録されており、ギネスブックによれば、プラハ城は世界で最も古くて大きいお城だそう。


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大聖堂の中にはいくつかステンドグラスがあるが、これが最も有名なアルフォンス・ミュシャ作のステンドグラス。ミュシャはチェコ出身。


◆Vladislav Hall:by Benedict Ried 1500
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正門前の広場からはプラハの街が一望できる。


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裏側の広場で記念撮影


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門番の衛兵さんの前で。




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プラハ城の一画に「黄金の小道」という通りがあり、手づくりの土産物などを売る小さな店が並んでいる。写真の青い壁の家は、黄金の小道にある、作家のフランツ・カフカが仕事場に使っていた家。


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プラハを流れるヴルタヴァ(モルダウ)川に架かるカレル橋は、ヨーロッパに現存する最古の石橋。
橋の欄干には彫刻が並んでおり、露天や大道芸人、ミュージシャンの演奏等に足をとめる観光客で賑わっていた。



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プラハ旧市街。プラハは空襲にあっていないため、古い町並みがそのまま残っている。
広場には赤いテントの露天が並び、お祭りのようにごった返していた。



<キュビズム建築>
キュビズムといえば、ピカソをはじめとする20世紀の画家たちによっておこされた芸術運動が有名だが、チェコでは世界で唯一、キュビズムが建築に応用され、プラハを中心とした各地に斬新で奇抜なキュビズム建築が誕生した。

キュビズム建築の特徴は、カットグラスのような立体的な壁面や幾何学的なデザインモチーフだ。
キュビズム美術が一点透視図法を否定し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めているように、キュビズム建築もその立体的な壁面が刻む陰影が、見る角度によって違う表情を生み、当時のプラハの若手建築家たちの、モダニズム建築や権威主義に対する実験的挑戦、といったみずみずしいエネルギーを感じるが、やがて戦争を経て共産主義へと移行するチェコではキュビズムの嵐も10数年で幕を閉じてしまう。

◆Black Madonna Hosue:by Josef Gočár 1912
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最も多くのキュビズム建築を残したというヨゼフ・ゴチャールの設計。
「黒衣のマドンナの家」と呼ばれているのは、建物のすみに黒い聖母像があったから。
内部には、キュビズム美術館やキュビズムカフェ「Orient」がある。




◆Villa at Libusina Street(コヴァジョヴィッチ邸):by Josef Chochol 1913
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チェコのキュビズム建築を代表する建築家、ヨゼフ・ホホルがプラハのヴィシェフラト地区に設計したキュビズム建築は"ホホルの3部作"と呼ばれており、これはその一つ。


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立体的なカットが入った扉に星のような幾何学模様のデザインが施された玄関ドア。


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こちらがコヴァジョビッチ邸の庭側。
通りに面した裏側の方がキュビズムの特徴が顕著なので、そちらの写真がよく用いられるが、鉄柵のデザインや庭のつくり(建物に対して斜めになっている)などもキュビズムテイストが満載で面白い。


◆Apartment House at Neklanova:by Josef Chochol 1913
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ホホルの最高傑作と言われている「ネクラノヴァ通りの集合住宅」。
この建物は、2本の道路が斜めに出会うT字路にあり、鋭角な角地に建てられている。斜面の連続で構成されている壁面、多角形の庇など、見れば見るほど楽しくなるキュビズム建築。坂道に面した1階の窓は、傾斜に合わせて違うデザインになっている。



◆Family Triplex :by Josef Chochol 1913
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ホホルが最初に手掛けたキュビズム建築がこの「ヴィシェフラトの三世代住宅」。


◆Fmily Duplex at Tuchon Street:by Josef Gočár
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ゴチャールが手掛けた「フラッチャニの二世帯住宅」は、アールヌーヴォー様式で建てられていたものに、途中からキュビズムを足したものだそうだ。



◆National Nederland Building:by Frank O. Gehry 1996
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カレル橋から南へ二つ目のジラスクブ橋のたもとにあり、中世都市プラハの街並みでひと際異彩を放っているのが、フランク O ゲイリーの「ナショナル・ネーデルランド・ビル」。突出した二つの円筒形のゆがみが、ダンスするカップルに似ていることから「ダンスハウス」とか「ダンシングビルディング」とも呼ばれている。



さて、この日はこれで終了。
翌日は、ジャン・ヌーベルがデザインした「プラハ・アンデル」を見学して、ブルノへ移動。ミースの「テューゲンハット邸」に行きます。
| デザイン紀行 | 12:22 | comments(0) | trackbacks(0)
ぶらり高山
高山の町は、東に乗鞍岳、南に御嶽山、西に白山、北には立山と東西南北を山に囲まれた盆地にあり、南北に流れる宮川を中心に、碁盤の目のような町並みと、江戸時代以来の城下町・商家町の姿が保全されている景観が京都に似ているところから「飛騨の小京都」とも呼ばれています。


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宮川にかかる橋には、色々なオブジェがあって、この足長の像は、足に触ると足の調子が良くなり、手に触ると手先が器用になるなどの言い伝えがあるそうです。


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こちらは、宮川沿いに開かれている朝市。


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食料品から土産物まで何でも売っている朝市では、地元のおばちゃんたちの方言が飛び交っていて活気があります。

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このおばちゃんが売っているのは、1本60円のみたらしだんご。醤油のみで味付けされた甘くないおだんごが高山の定番です。醤油の香ばしい香りにさそわれて1本いただきました。


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朝市でもマスコットみたいなやつをたくさん売ってあった高山の人気キャラクター「さるぼぼ」は「猿の赤ん坊」という意味です。災いが去る(猿)、家内円(猿)満になるなど、縁起の良い物とされ、その昔子供が産まれたときの御守として、玩具の代わりに与えられたそうです。



こちらは宮川沿いの朝市からほど近いところにある、日下部民芸館。
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その昔、織田・豊臣・徳川氏の家臣であった金森長近は、関ヶ原の戦いで功績を収め、初代高山藩主となる。長近は京都に習って市街地を碁盤目状に作り、東山に寺を集め、侍屋敷・職人町を作り、現在の町の原形をつくりました。
しかしその後金森氏は国替えとなり、飛騨は徳川幕府直轄の「天領」となり、それ以降、高山は町人の町として栄えることになります。

その時代に、この日下部家は幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といいました。

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当時の建物は明治8年の大火で焼失し、4年後の明治12年に名工・川尻治助によって再建されたのが現在の建物です。母屋は切妻造の2階建てで、総檜造り。江戸時代の建築様式を今に伝える民家として、昭和41年に国の重要文化財に指定され、以後民芸館として一般に公開されています。



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約21cm角の大黒柱と長さ18mもの梁がつくりだすダイナミックな空間構成が、高山の町家建築の最大の特徴ですが、それは、江戸時代に設けられていた軒の高さの制限が明治維新とともに撤廃され、飛騨の匠が持ち前の技を存分に発揮できるようになってから誕生したのだそうです。


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台所の横の囲炉裏。どこもここも広々としていて、さすが豪商の邸宅という感じ。けれどお役所とは違う、商人ならではの活気があったのだろうと想像できます。


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中庭に面した本座敷。


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文庫蔵と呼ばれる土蔵。
現在はここに各種民芸品、工芸品約5000点が展示されています。


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中庭に面した土間には休憩所が設けてあり、ここで冷たい麦茶と塩せんべいをサービスしていただきました。




かわってこちらはお代官や郡代が政治を行った役所である「高山陣屋」。

高山が幕府の直轄地になって以来、明治維新までの177年間に25人の代官・郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・警察などの政務を執り行った。このときに使われていた御役所、郡代役宅、御蔵等を併せて「高山陣屋」と呼んでいます。

幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所ですが、当時の建物が残っているのはこの高山陣屋だけだそうです。

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この写真では分かりにくいですが、奥の入口に下がっている垂れ幕には江戸幕府の直轄地であった証の「徳川葵」の紋があります。あ、手前の提灯にもありましたね。


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玄関の間
身分の高い者専用の玄関の間の壁には、徳川将軍家にのみ許された青色の青海波文様が描かれています。また床には、花もちが飾られていました。そういえば京都の俵屋でもお正月に必ず花もちを飾るようですが、あちらは柳の枝に花餅をつけていたと思います。

お役所といえども、さすがは徳川直轄のお屋敷。なかなか雅やかです。



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ウサギをモチーフにした釘隠し。広く民衆の声を聞けるようにという意味が込められているそうです。高山陣屋の各所でみられました。


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御役所(おんやくしょ)
江戸から派遣された代官・郡代たちが勤務した場所。
その奥は後用場(ごようば)といって、地元採用の職員が事務を執った。


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湯呑所(ゆのみじょ)
今でいう給湯室。役人に出す湯茶の準備をした場所。


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台所
郡代の生活の場である役宅にあり、郡代とその家族の食事をつくった。


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大岡越前や鬼平犯科帳でもおなじみの、お白州。
雪深い土地柄らしく、屋内に設置されているのかと思いきや、ウィキペディアで調べると、もともとお白州は屋内の土間に砂利を敷いて用いていたらしく、時代劇などに見られる屋外の砂利敷のお白洲は史実とは異なるのだそうです。

ちなみに真ん中に置いてあるのが「責め台」でその右が「責め石」。

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三角の角材を並べた責め台の上に正座させられ、一枚約40kgの責め石を4枚も...

佐藤健の人切り以蔵を思いだします。


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御蔵(おんくら)
年貢米を保管していた土蔵。
もともと高山城三之丸にあった西棟・東棟の米蔵2棟を、1695年(元禄8年)に陣屋に移築したもの。現在残っている西棟は、現存する日本最古の米蔵であり、江戸時代の米蔵として国内最大級である。西棟の内部はさらに8つの蔵に分かれており、一蔵あたりに2,000俵の米俵が格納できる。
莫大な量の年貢米が集められていたこの大きな御蔵は、江戸当時の天領を統治していた高山郡代の権力の大きさを物語っているという。

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長くなりましたので今日はこの辺で。

次回は高山のおいしいものについて書きたいと思います。 









| デザイン紀行 | 13:30 | comments(0) | trackbacks(0)
名古屋そして高山に行ってきました
岐阜県の高山に、螢タニという木工家具を製作している工房があります。 
ここは北欧のデザイナーやその親族とパートナーシップを結び、現在では本国でも製作されていない名作家具などもライセンス生産・販売している会社です。クラフトマンシップあふれる、このこだわりの工房に、前々から行きたいと思っていました。

8月の終わりにキタニより「2011 飛騨・高山暮らしと家具の祭典」の案内状が来たので、行こうかどうしようかと思案していたちょうどその時、10年近く前に、熊本市でご自宅を設計させていただいたお客様からお電話をいただきました。今度名古屋に自宅を新築したい(※現在は名古屋にお住まいです)という嬉しいオファーをいただき、二つ返事で名古屋・高山行きを決めました。


名古屋へ行くのは、何と十数年ぶりです。
セントレア空港も初めてなら、そこから名古屋駅までの直通特急ミュースカイも初めてでした。
そして、久しぶりの再会をはたしたMご夫妻と、建設予定地を見せていただいた後、名古屋駅上にそびえるJRセントラルタワーズ内のフレンチレストランで食事をしながら、打合せをさせていただきました。

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JRセントラルタワーズ
(ホームページより写真を拝借)


その後、16:00発高山行きの高速バスで名古屋を後にしました。
Mご夫妻大変お世話になりました。そして、またどうぞよろしくお願いします。





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さて、翌日から始まった「2011飛騨・高山暮しと家具の祭典」は、高山市の繁華街からシャトルバスで10分ほどの「飛騨・世界生活文化センター」をメイン会場に、同市内にある出店企業のショールームやギャラリー、イベント会場などで、様々なイベントや展示会を行っていました。 



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メイン会場の飛騨・世界生活文化センター。
今回のテーマは「再生」。テーマブースでは、家具の修理・再生はもちろんのこと、森林再生や国産材の活用など、会員企業が取り組む「日本の暮しの再生」が提案されていました。


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そしてここが、今回最も行きたかったkitaniです。

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常設のショールーム。ここはナナ・ディッツェルのコーナー。
右の籐のハンギングチェアは、キムタク主演の月9ドラマで使われて、一気にメジャーになりました。


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こちらはフィン・ユールを中心としたイージーチェアがたくさん置かれています。


kitaniでも、このイベント期間中は様々な展示が行われていまして、「北欧家具とライセンスメーカー展」・「歴史を彩るデンマーク名作展」という全国で展開中の2つの巡回展も同時開催していました。

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上の椅子はフィン・ユールの「チーフテン」

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これだけの数の北欧名作椅子が一同に会することは珍しく、かなりレアでお得な展示だったと思います。


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そしてこちらは、kitaniの敷地内にある邯鄲亭(かんたんてい)。
1930年代から1960年代に製造された北欧家具のコレクションがこれでもかと展示してあります。

しかしここにある家具たちは、ただのコレクションとはわけが違います。福祉の家具を学ぶために北欧に行った際に、倉庫に眠る山積みの埃だらけの家具を日本に持ち帰ってきたものだそうで、構造や素材を調べるために一脚一脚分解したのだそうです。

「ガラクタの山が宝の山にかわり、この優れた椅子を自分たちの手でつくりたい!という想いが、ライセンス取得への原動力になった」という経緯を知り、「ものづくり」とはこうであるべきだと頭がさがりました。

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一つ一つが垂涎ものの椅子たち。

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チャイニーズチェアを原点に、ザ・チェア、Yチェアへと変遷していく過程を並べてありました。

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ベアチェアも味がでてますますいい感じに。


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こちらはkitaniの工場。中には入れませんでしたが、ちらっと覗いたらデンマークのPPモブラーの工場に雰囲気が似ていると思いました。



この日は、ちょうど年に一度の「手工神(しゅこうじん)」の法要も行われ、たまたま居合わせた私でしたが、職人さんたちと一緒に、自然素材への感謝と、良いものづくりを目指すことを祈念してきました。

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職人にとって、手は一番の道具です。そこで手からものを生み出す全ての人たちのシンボルとして、kitaniが2008年につくったこのブロンズ像は、岐阜県出身の彫刻家天野裕夫氏によるもの。

「手工神」は左右の手が一つに重なり、中心は脳と繋がっています。指先は天空へと伸び、手首の部分は顔、中心の脳にあたる部分には神殿があり、全体で神域がイメージされています。

高山は、古くから「飛騨の匠」と呼ばれるものづくりのスペシャリスト達を排出してきました。
どんなに機械化が進んでも、材料の木取りから椅子張りまで、最終的に製品の良し悪しを決めるのは職人の手であり心だと考えるkitaniは、この地で、ものづくりの技術と職人の精神を受け継ぎ伝えていくために、この手工神をつくったといいます。



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法要後の交流会。その場の流れで、招待もされていないのに一緒に参加させていただき、ラッキーでした。

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交流会では、庭に仮設の舞台を設営して、舞踊家の舞が披露されました。

こうして低い軒で切り取られた舞台の光景を見ていたら、昨年行った桂離宮の月見台を思い出しました。あそこはそこに座って月を見るための舞台ですから、軒の出も非常に短くつくってありましたが、こちらは庭を見るための演出だと思うので、フレームで切り取られた舞台が美しく、それぞれに日本人の空間に対するセンスは素晴らしいなあとつくづく思い知らされます。



それからもう一つ、kitaniでは、フィン・ユールの生誕100年に当たる来年1月に向けて、「フィン・ユール邸建築プロジェクト」という計画が進行中で、高山のフィン・ユール邸は、現在棟上げが行われたところです。

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フィン・ユールは世界的に熱狂的なファンを持つデンマークの家具デザイナーで、特にその独特のフォルムにより「椅子の彫刻家」と評されています。

「自分が使いたい椅子をデザインした」というフィン・ユール氏の椅子を、より多くの方に、しかも氏が意図した環境で感じていただけるようにと、建築プロジェクトが立ちあげられ、フィン・ユール財団、デンマーク大使館、東海大学などの協力の下、来年1月の生誕100年の誕生日の完成に向けて建築が進められているところです。

この日はとても天気がよく、山の向こうに乗鞍岳が見えていました。kitaniの方によると、乗鞍岳がこんなに見えることはなかなかないそうで、つくづく来てよかったと思った1日でした。


今日のところはこれで終わりますが、高山の古い街並みや朝市、酒蔵や古い町家などもぶらぶらと歩きながら見てきましたので、その様子もまた次回ご紹介したいと思います。
| デザイン紀行 | 17:30 | comments(0) | trackbacks(0)
TOKYO WALKING

ちょうど一月前、テニスの練習中に左のふくらはぎを肉離れしまして、それ以来歩くときは足を引きずりながらの不便な生活を送っていました。

肉離れになる直前に、デンマークのオーレさん(ARCHITECTMADE)から、東京ビッグサイトで6月1、2、3日にあるインテリアライフスタイル展に出店するから是非来て下さいという電話をもらい、二つ返事で「行きます」という約束をしてしまっていたため、まだ少し不安ではありましたが、リハビリも兼ねて?東京へ行ってきました。

しかし、東京というところは、電車での移動が基本なので、必然的に普段の数倍は歩くことになり、初日は駅でもエレベーターを利用したり、人の流れを止めないように気を遣いながら自分のペースでゆっくり歩きました。

いつもなら私自身歩くのは人一倍速い方なのですが、今回ばかりは東京人の歩く速さと、スピードを落とさずに巧みによけていく身のこなしに感動すら覚えながら、駅のホームに一人取り残され、潮の満ち引きのように繰り返される瞬間的な人々の大移動を、蚊帳の外から眺めるだけのTOKYO WALKINGでした。



なにはともあれ無事に再会できた、オーレさんと、ARCHITECTMADEのブースで。
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ARCHITECTMADEは木製の動物のオブジェやフィン・ユールのトレイなど、デンマークのデザイナーズ雑貨のメーカーです。この日のお昼、ビールを飲みながらいろいろな情報交換させていただきました。

オーレさんは日本語がとても上手で、メールも漢字交じりの日本語で書いて来られます。
文末にカタカナで「オーレ」と書いてあるのが、何とも親しみを感じるメールです。





そして先日当事務所に社長の二ールス氏が来所されたロイヤルファニチャーのブースには、REX chairも展示されており、念願のイージーチェアとテーブルを購入。

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この111 NAVY CHAIRもかなりスペースをとって展示してありました。
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この他に何百というインテリア関係のブースがありましたので、ここでは紹介しきれませんが、丸1日かけてじっくりと見て回りました。新しいものづくりに挑戦している人たちもたくさん集まっているイベントですので、ものづくりに係る一人としては、大変面白く、刺激になった展示会でした。


その中で、最も私の目を引いたのが、このFLUX Chair。
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これは、折り紙のように折りたため、簡単に持ち運べる軽量な椅子(オランダ発)です。

早速当事務所でも取り扱うことにしました。近々届きますので、興味のある方は見に来て下さい。
結構しっかりしてます。1脚¥15,750(税込)です。

動画を見てもらうとよくわかります↓
http://www.fluxchairs.com/video






六本木ミッドタウンにある21_21 design sight(設計:安藤忠雄)では、「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」をみてきました。

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インテリアデザイナーとして最も敬愛する倉俣史朗とエットレ・ソットサスの企画展は、当初5月の連休までの予定だったのですが、震災の影響を受けて延長になり、もともと見に行きたいと思っていた私は、絶好のチャンスとばかりに足を運びました。


 


上野の国立西洋美術館(設計:ル・コルビュジェ)ではレンブラント展を見て

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隣の東京国立博物館(平成館)では、写楽展が開催中でしたので、今回、思うように歩き回れない分観賞に時間をさいてきました。

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こちらは、南青山の根津美術館
先日行った長崎県立美術館と同じ、隈研吾氏の設計です。

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このほか、銀座・丸の内界隈や表参道などの話題のショップや飲食店、複合ビルなどを時間と足の許す限り見て回りました。

本当にふくらはぎのご機嫌を伺いながらの3日間でしたが、帰ってからは、足の調子もすこぶる良くなり、仕事以外のことを考える時間を持てたことで、やはりTOKYO WALKINGは、心身ともによいリハビリになったと思います。
| デザイン紀行 | 16:30 | comments(2) | trackbacks(0)
Looking back 2010 デザイン紀行−沖縄編−

昨年の写真を整理していて、このブログで紹介しそびれているものがいくつかありましたので、遅ればせながら、Looking back 2010 デザイン紀行ということで、昨年を少しだけ振り返ってみたいと思います。


昨年の3月末に、京都へ行った際の桂離宮や俵屋旅館については、このブログですでにご紹介しましたが、実はその月の初め、3月6日・7日に、1泊2日で沖縄に行きました。私用でしたので、仕事の合間を縫って1泊2日がぎりぎりだったのですが、その中でも是非見たいと思っていた「中村家住宅」をはじめ、首里城やアメリカ村などもレンタカーでまわることができ、とても内容の濃い2日間でした。




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まずは世界遺産の首里城。
ちょうど正殿の修復工事が行われてはいたものの、内部は全部見ることができました。
正殿の建築は、中国の宮廷建築と日本の建築様式を基本にしながら琉球独特の意匠
にまとめられていて、柱や梁に多数の龍の彫刻が施されています。



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守礼の門で娘と。
3月のはじめでしたが、半そでで全然OKの陽気にびっくり。
その後行った京都では、雪が降って大変だったのですが。


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琉装の女性たちと写真撮るといいさー


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正殿2階の御差床(うさすか)−つまり国王の座る王座
御差床左右の柱には龍が描かれ、そのまわりには雲が配色されていて
まさに豪華絢爛。
椅子のデザインにも中国の影響が色濃く表れています。


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正殿1階の御差床前で。


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首里城のジオラマ。

正面が「正殿」、向かって右が「南殿・番所」、左が「北殿」で、これらに囲まれた
中庭広場の空間を「御庭(うなー)」という。
年間を通じて様々な儀式が行われた御庭には磚(せん)というタイル状のものが
敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ
目印の役割をもっていたそうです。




正殿とはうって変わって、国王が日常の執務を行ったという御書院と言われる広間
がある建物は日本風。中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、
ここで接待を行うこともあったそうだ。奥には内炉之間と言われる茶室もあり、
御書院の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていたらしい。



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書院に面して城内で唯一の本格的な庭園がある。書院に招かれた冊封使たちは、
この庭園の魅力を讃える詩を詠んで、その様子を「わだかまった松と蘇鉄とを、
奇怪な格好をした石の間に、互い違いに植えている」と伝えている。沖縄県内の
グスク(城)の中で、庭園があったことが分かっているのは首里城だけで、琉球
石灰岩をたくみに利用したつくりになっている。

創建当時の琉球王国は独立国だと思っていたので、このように国王の城に日本の
書院や茶室を見るのは逆に違和感さえ感じました。しかし当時、琉球王国は表向き
は中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙
な国際関係の中で存続していたようで、中国、日本、さらには朝鮮や東南アジアなど
周辺諸国からの影響をうけつつ、幾多の興亡を繰り返しながら独自の王朝文化を築
いていったその結晶が首里城であることを思うと、あらためて感慨深いものを感じて
しまいます。






沖縄の道はとてもわかりやすいので、レンタカーだと行動範囲も広がります。
ドライブがてら北谷町・美浜(ちゃたんちょう・みはま)にあるアメリカンビレッジまで
足を延ばしました。

ここは元々は米軍基地だった跡地を利用して建設された都市型リゾートで、
アメリカンな雰囲気の中に数多くのショップやレストランなどが立ち並んでいます。




アメリカンビレッジの隣には、サンセットビーチという夕日が有名なビーチがあり、
この日本当に美しいサンセットを見ることができました。


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そして沖縄のうまいもの...

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沖縄に来たら是非食べたいと思っていたソーキそば。
ガイドブックに載っていた浦添市の「高江洲そば」というお店に行きました。
人気のお店らしくしばらく並んで入店。
ソーキというのは、豚のあばらの骨つき肉のことで、長時間煮込んでトロトロのソーキと
縮れ麺にからむ豚ベースのあっさりとしたスープがうまかったー。コーレーグ−スという
島唐辛子の泡盛漬けも忘れずに。


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「ジューシー 150円」 とお店の壁に貼ってあったので、シークアーサーみたいな
果物のジュースかなと思ったら、沖縄風炊き込みご飯のおにぎりでした。
これもバリうま。


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夜は国際通りにある沖縄民謡の店「かなぐすく」という居酒屋へ。
島唄のライブを聞きながら、沖縄料理と泡盛を堪能しました。


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特に気に入ったのが、しまらっきょう(左)とミミガーの和え物。
しまらっきょうは自分の畑で栽培したいと本気で思ったくらい酒の肴にgood。


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その店で一人テンションあがりまくりだったこのおじさん、宮古島から来た
と言ってました。
しまんちゅは、とにかく踊るのが好き?
このおじさんにあおられて、しまいにはみんな踊り出しました↓





うまいものついでに、ちゅら海料理をご紹介しますと、翌日に公設市場の
食堂で食べたイカスミ汁とそうめんちゃんぷる。それと名前は忘れましたが
鮮やかな色をした魚の焼物です。

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イカスミ汁は思ったより生臭くなくて、出汁がおいしかったのですが、
食べたあとに歯と舌が真っ黒になったのには閉口しました。


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公設市場では、本土では見ない魚貝類や、豚肉料理、そしてしまらっきょう
もたくさん売ってありました。



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それから、自販機やコンビニなどどこに行ってもあるのがさんぴん茶。
これはジャスミン茶の沖縄流の呼び名のようですが、香りがよく、豚肉などの
肉料理には特にさっぱりしてよく合います。
さんぴんというのは中国でジャスミン茶のことを「シャンピェンツァー」と発音
することに由来するらしく、こういう生活に根差したところにも中国の深い影響
が見受けられます。
そういえば随分昔、中国人から聞いたのですが、烏龍茶は中国でも福建省など
一部のエリアの人しか飲まなくて、一般的には中国人はジャスミン茶を飲むのだ
そうです。



さあそして、いよいよ国指定重要文化財でもある中村家住宅。

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中村家住宅は中城(なかぐすく)の地頭職(庄屋)だった同家が1987年まで、
11代にわたり暮らしてきた上級士族の住居です。

現存する建物は18世紀中頃に建てられたと伝えられており、建築構造は、
鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、各部に特殊な手法が
加えられて、独特な住居建築になっています。この遺構は、士族屋敷の形式
に農家の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して沖縄の住居建築の特色
をすべて備え持っています。屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切り開いて建て
られており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役
目を果たしている福木を植え、台風に備えています。 (中村家住宅ホーム
ページより)


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沖縄の伝統的な民家の様式として、このアプローチの正面奥にある琉球石灰岩を
切り出して積んだ石垣「ヒンプン」(目隠し壁)があります。

中国語の屏風(ピンプン)に由来すると言われ、元々は悪霊が正面から家に入りこ
むのを防ぐ「魔よけ」としての意味合いが強かったようですが、通りからの視線をカ
ットしてプライバシーを守ったり、南風が屋敷に抜けていくように設計されており、
台風のときには防風林の福木とともに強風が家を直撃するのを防いでいます。


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また、その昔沖縄ではヒンプンを挟んで男性は右側から出入りし、女性は
台所へ直通する左側から出入りしていたそうです。
ヒンプンにつきあたって右側へ行くとこの中門があり、そこをくぐると中庭を
囲むように右手に「アシャギ(離れ座敷)」正面に「ウフヤ(母屋)」があります。


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こちらはヒンプンにつきあたって左に曲がったところ。こちらを通ると中庭を通ら
ずに勝手口や井戸のあるサービスヤード的な庭へ行くことができる。つまり、
このヒンプンが人の動線を左右に振り分けているのですが、差別的な意味合い
というよりも、どちらかというと機能的な意味合で人々の暮らしに対応していた
ように思います。

ヒンプン越しに上部が突き出た建物は高倉。屋根裏の部分に施された傾斜を、
別名「ネズミ返し」といい、ネズミが穀倉に入れないように工作されたもの。



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正面が「ウフヤ(母屋)」。右側が首里王府の役人が地方巡視に来た際に、
宿泊所として使用したといわれている
「アシャギ(離れ座敷)」


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母屋は右手から順に、一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)と
並んでいます。私が座っているのは一番座の前の縁側。




先祖崇拝が中心的な沖縄では、仏壇がある二番座が家の中心となるように
配置されており、これは風水において、入口から入った良い「気」が直接
仏壇に向かっていくようにとの配慮。裏には各一間づつ裏座(クチャ)と
いう居室があり、寝室、産室として使用された。





三番座の前方にはナカメー(中前)という板間がついており、畳間はすべて
6畳かそれ以下で、当時の農民にはその大きさしか許されていなかったよう
です。



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三番座の左隣にある茶の間に隣接して造られているトゥンガ(台所)。
トゥンガの床は広い土間となっていますが、ちょうどかまどのところが対面カウンター
のようで、茶の間と台所の関係が使いやすく機能的になっていることにとても関心
しました。



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ここでオバアやオカアたちが、どんな琉球料理をつくっていたのだろうと、想像する
だけでも楽しくなったのを思い出します。




土間の一角にある洗い場。水がめが置いてあります。


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トゥングワには「火の神(ヒヌカン)」をまつり、毎月一日・十五日には
拝んでいたという。





屋根はアマハジ(雨端)といって、深く庇のように出張った構造になっている
これは強い日差しと雨を避けるためのもの。




母屋の一番座が面する裏庭は客間のアシャギとも繋がっており、建具を全部開けると
中庭とも一体となって、開け放された室内に風が抜けて気持ちいい。





これは敷地の北西の角にある(沖縄の風水ではここが最も悪い位置らしい)
フールという豚小屋。当時はこの上に便所を設けてあり、人糞を豚が餌にし、
その豚を人間が食べるという、まさに合理的な食の循環がなされていた。
ここにも中国の影響を感じます。



中村家住宅のことは、本で見たことはありましたが、実際に見て感じるのは、
本当に機能的にできているということです。
ヒンプンによって外部と内部を絶妙に仕切ったコートハウスとも言える中庭の
配置や、オープンキッチン的な台所のつくりなど、現代の住居に通じる工夫が
随所にみられ、当時の人々の日々の暮らしを鮮明に想い浮かべることができ
る、心地よいぬくもりのあふれる空間体験でした。




これは中村家住宅の中庭に鎮座するシーサー。
右の口を開けているのがオスで、左がメス。かなり大きなものでした。

沖縄では町のそこここで門柱や屋根の上などにたくさんのシーサーをみかけ
ました。






最後に、国際通りから少し入った、「壺屋やちむん通り」という焼物の
通りをご紹介します。

琉球王朝の尚貞王は1682年に美里村の知花、首里の宝口、那覇の湧田
にあった窯場を那覇市壺屋に集め、陶器産業の振興をはかりました。
これが壺屋焼の始まりだそうです。






車1台がやっと通れるくらいの石畳の細い路地に、現在はシーサーの
専門店から、食器などの陶器、果ては骨壷専門店までたくさんの焼物
のお店が軒を連ねています。




南釜(フェーヌカマ)と呼ばれている荒焼用の登り窯跡。
県の有形文化財に指定されています。


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焼物もたくさん置いてある南釜の敷地にあるカフェ。
気のきいたカフェも点在しているので、陶器を物色しながらぶらぶらと
散策するにはもってこいの通りです。



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やちむん通りから左に入ると「いしまち通り」というもっと狭い通りがあります。
そこには昔の伝統的な壺屋陶工の住宅形式を唯一残している「新垣家」と
いう家があり、国の重要文化財に指定されています。残念ながらこの時は
修復工事中だったのですが、昔ながらの沖縄の雰囲気を残した小道は、
とても風情があり、繁華街の近くにこんな通りがあるとは思えない場所です。


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那覇の国際通り、公設市場と見て回ったら、この壺屋やちむん通り界隈まで
足を伸ばすことをお薦めします。

そんなわけで、1泊2日の沖縄の旅は、那覇近郊のみで、北部のちゅらうみ
水族館や万座ビーチなどまでは行けませんでしたが、なかなか味わい深い
旅でした。今度は竹富島などの離島にも行ってみたいです。



| デザイン紀行 | 15:35 | comments(0) | trackbacks(0)
京都 俵屋番外編
3月に行った京都のデザイン紀行で、まだご紹介していなかった俵屋の番外編です。

俵屋旅館第11代当主佐藤年さんプロデュースのカフェ「遊形 Salon de the(サロン・ド・テ)」で座ったフィン・ユールをはじめとする椅子たちは、もちろん知ってはいたものの、あれだけの椅子をセンス良く、そしてあそこまでさりげなく並べてある空間をそれまで見たことがなかったので、あらためて佐藤年さんの確かな審美眼と美意識の高さに脱帽。

何かで読みましたが、このサロンに置いてある椅子たちは、佐藤年さんが、デザイナーの名前も知らずに買い集めてきた北欧のヴィンテージ家具(今ほど北欧家具が市民権を得る以前から買い集めていたらしい)だそうで、そのことだけでももう尊敬してしまいます。

私なんて、今ようやく「いつかはフィン・ユール」と思い始めているところなのに。





俵屋旅館の通り(麩屋町通り)を一角曲がったところ(姉小路通り)に俵屋のアメニティなどを販売する「ギャラリー遊形」とこの「遊形サロン・ド・テ」はあります。




この遊形サロン・ド・テの建物は、明治時代に建てられた町家を改装したもので、わずか13席ながら、吹抜けの天井と坪庭に面したガラスの開口部が奥行きのある店内を明るく、清潔感あふれる空間へと仕立てている。









和とモダンの融合というととかく泥臭くなりがちだが、洗練の見本のような店内と手入れの行き届いた坪庭。







奥の青い椅子は、フィン・ユールのNo.53。左の二人掛けは、オーレ・ヴァンシャーのイージーチェア?初めて見ましたが、かなり座り心地よかったです。



こちらはフィン・ユールのイージーチェアとルイス・ポールセンのスタンド。



そしてもう一つ、特筆すべきは、ここで出されるスイーツたち。

俵屋に泊まるとお着きの菓子で供される絶品スイーツ「蕨もち」がここでも食べられます。ほうじ茶または煎茶とのセットで¥2000。お抹茶とのセットであれば¥2200という値段だが、この蕨もちは、タピオカや芋のでんぷんではなく、本わらび粉(わらびの根?を粉にしたもの)を使用してある俵屋オリジナルの伝説的なデザートで、その食感はやわらかく、とろけるよう。

前回俵屋をご紹介した時に蕨もちの写真を載せていますが、青竹の器に入っているのは同じです。ただ抹茶をたのむと、抹茶碗は何と細川護煕氏作の碗で出てくるらしいです。その他スイーツがサーブされる器やカップ類は、ほとんど俵屋で使用されているもので、ギャラリー遊形で購入もできます。




今回食べたのは「ムース・ショコラ ポルト酒のジュレ」という一品。これは2004年に閉店した木屋町三条の「カフェ・リドル」のレシピによる復刻版のスイーツだそうで、もうめっちゃうまかったです。これに同じくカフェ・リドルの深煎りコーヒー(これまた激うま)を銀のポットでいただいて¥2200。でも今回は俵屋に宿泊した時に一人分のサービス券をもらっていたため、このセットはタダでいただき、コーヒーを一杯追加して¥1200でした。

カフェ・リドルのレシピのスイーツはこのほかにもうひとつ、「クレーム・アングレーズ・オランジュ」というオレンジのバニラムース的なやつもあって、京都ではそれらのスイーツ目当てに来るお客さんも多いとか。

一流の家具と備品に囲まれ、一流のスイーツを堪能できる贅沢な空間。けれど、そこには俵屋のホスピタリティが隅々まで行きわたっていて、ゆっくりと心ゆくまでくつろげるスペースに、つい長居をしてしまいました。




入口の扉は、俵屋のアーネストスタディと同じモチーフです。右の椅子はハンス・J・ウェグナーのダイニングチェアだと思われるが、もしかしたらフィン・ユールのものかも。だとすればかなりレアものです。

「椅子の彫刻家」という異名を持つフィン・ユールの椅子は、三次元の美しい曲線を持つものが多く、「ペリカンチェア」という張りぐるみの椅子などは、一度見たら忘れられないデザインで座り心地も抜群です。しかし1940年当時、(アルネ・ヤコブセンのデザインで同じように張りぐるみの「スワンチェア」は1958年)デンマークでは彼の造形があまりにも突飛であると受け入れられず、意外なことにまずはアメリカで彼の作品は高く評価されたという。ちなみにフィン・ユールの名声を高めることにつながった「グッドデザイン展」の監修をしたアメリカ人が、落水荘(フランク・ロイド・ライト設計)のオーナーの息子であり、美術評論家のエドガー・カウフマン・ジュニアであったというのがおもしろい。(落水荘については当ブログの2009年7月のデザイン紀行をご参照下さい)




妻が座っている椅子はウェグナーのミニ・ベアチェア。アーネストスタディにはベアチェアが置いてありましたが、ここにある椅子のどれをとっても、座るどころか見ることもそうはできないものばかり。これらの椅子に座ってまったりと時間を過ごせるなんて、本当に贅沢。

ちなみにここで最初に出される水は俵屋の井戸水だそうで、まろやかな口当たりでおいしゅうございました。またおしぼりにはあの石鹸の香りがしみこませてあり、俵屋に泊まらずとも俵屋のエッセンスを味わえる贅沢空間サロン・ド・テです。あーまた行きたい。
| デザイン紀行 | 14:34 | comments(0) | trackbacks(0)
大阪に行ってきました



十数年来お付き合いさせていただいている、美容業界では知る人ぞ知るデザイナー熊沢信生氏(螢▲肇螢KUU代表)が事務所を中之島に移転されたと聞き、中之島界隈のリポートも兼ねて、今回大阪に行ってきました。

中之島を臨む土佐堀川に面したビル(写真右から二つ目のビル)の5階が熊沢さんの新しい事務所です。古いコンクリートの建物で、中はコンクリート剥き出しのスケルトンに白い家具を配し、ニューヨークのソーホーを彷彿とさせる熊沢さんらしいデザインの事務所でした。(久々にお会いしたので話に夢中になり、写真撮るの忘れてました)

熊沢さんは韓国でもたくさんの美容室のデザインをされていて、事務所では、それらが掲載されている韓国やポルトガルの雑誌なども見せてもらいました。




夜は、元は薬問屋だったという建物を改築した居酒屋の屋根裏で飲みつつ、いろいろと情報交換。

現在問題になっている中国のパクリ建築?なども話にでましたが、海外でも仕事をされている熊沢さんによれば、現在の韓国や中国、台湾などは、国がデザインなどのソフト分野の教育に非常に力をいれており、今後は日本のデザイナーもうかうかしてはいられないとのこと。そして結局日本人は日本の文化をベースに新しいことを発想していくことが必要であるという結論に達し、現在私なりに考えていることにも共通点があり、有意義で楽しい時間を過ごさせていただきました。



それから、今回のもう一つの目的が、デンマークのARCHITECT MADEからちょうど日本に来られているオーレさんというデンマーク人に会うことでした。具体的なビジネスの話ではなかったのですが、何度か電話で話をしているうちに、とにかく1回会ってみたいと思いたち、今回お会いすることになったわけです。

デンマークには一度行ったことはありますが、実際にデンマーク人から聞く生きた情報というのは本当に面白く、やはり実際に会って話をすることは、どんなに発達した情報化社会であっても必要なことだと実感しました。(またまた話に熱中していて写真撮るのを忘れましたが)





ARCHITECT MADEの製品は今後一部当事務所にも置く予定ですので、興味がある方はどうぞ見に来て下さい。手にとってみてはじめて良さがわかるような製品です。



中之島界隈には、「近代建築」と呼ばれるレトロな建築物がたくさん残されています。そして近年、大阪ではこの中之島を中心としたウォーターフロントの再開発が、官民一体で取り組まれているところです。



大阪市中央公会堂


大阪近代建築のシンボル的な存在とも言える赤レンガの中央公会堂は大正7年の竣工。株の仲買人だった岩本栄之助がアメリカを視察した時に、近代都市には市民が集う大規模な集会施設が不可欠だと痛感。100万円の私財を投げ打ってつくったと言われる。

その後、70年代に中之島東部一帯の再開発話が持ち上がった時には、建築関係者のみならず、市民が一帯となって保存運動を展開。88年に永久保存が決まってその方針が議論された時にも、新聞社の呼びかけに応じて、市民による寄付が集められた。そして2002年、耐震工事を含めた大規模な改修工事が実施され現在に至るという経緯を持つ。


大阪府立中之島図書館


明治37年に大阪初の図書館として開館した築100年を超える建築物。こちらも寄付によって生まれた建物で、これだけ立派な都市なのに図書館がないのはおかしいと、住友本家第15代家長吉左衛門が建設費と図書の購入費、合わせて20万円の寄付を申し出てつくられたもの。天下の住友財閥とはいえ、民間人の寄付によって公的な性格を持つ建築物がつくられたというのが大阪らしい気がする。



図書館内部のドーム部分。



大阪市立東洋陶磁美術館


こちらはそこまで古くはありませんが、中央公会堂の向かい側にあって、世界的に有名な「安宅コレクション」を中心に中国、韓国、日本の焼物約4000点を収蔵している、陶磁器の美術館。



大阪市立科学館(左)と国立国際美術館(右)


国立国際美術館は竹をモチーフとした斬新なデザインの外観が目印。現代美術をメインに国内外の作品を展示する、世界初の完全地下型の美術館。



川床


京阪「北浜駅」近くの土佐堀川南べりに店を構える飲食店などが、京都鴨川沿いの納涼床よろしく、土佐堀川にせり出すように川床(テラス)を設けています。これも「水都大阪」の名物にしようという取り組みで、河川法では原則禁止されている河川敷での店舗開設を、国土交通省が「地域再生」の一環なら水上店舗を容認するという規制緩和を自治体に示したものです。


このほかにも中之島から南のエリアにかけてたくさんのモダン建築が残っていて、これらのビルをレストランや雑貨店などにコンバージョンする例が増えており、それらは近代と現代が混ざり合う大阪の新しい魅力となっています。


熊本では、旧第一勧銀や旧慶徳消防署など、本来残すべき財産である建築物が老朽化を理由に取り壊されてきました。新幹線が通る今となっては悔やまれるところではないでしょうか。





大阪駅周辺では、現在大阪駅開発プロジェクトとして2011年の完成を目指し「大阪ステーションシティ」を整備しており、これはその模型です。




そしてこの写真は、模型左側にそびえるビル(アクティ大阪)の展望台からの眺めです。タクシーの運転手さんが「大阪もやっと底から抜けだしそうや」と言っていたように、以前よりも大阪に活気を感じたような気がします。





一方こちらは道頓堀のあるミナミ地区よりさらに南へと下ったところの四天王寺です。

先日の京都編では、東寺で毎月21日には「弘法さん」と呼ばれる蚤の市が立つとご紹介したばかりですが、ここ四天王寺では弘法大師の命日の21日に「お大師さん」、聖徳太子の命日の翌22日には「お太子さん」と呼ばれる蚤の市が行われているそうです。

四天王寺は、聖徳太子が建立した日本仏法最初の大寺で、中門、五重塔、金堂、講堂の大伽藍が一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」の寺として有名。

この日は境内で古本市が開かれていました。後で調べたところ、年に2回、春と秋に青空大古本市が開かれており、その初日にたまたま遭遇したというわけです。時間の関係でちょこっとのぞいただけでしたが。





四天王寺からほど近い、こちらは大阪下町のシンボル通天閣を仰ぐ新世界です。道頓堀は何度も行ったことがありますので、今回はまだ未体験の新世界に、コテコテの大阪を体験すべく行ってみました。




アーケード商店街のジャンジャン横丁には串カツの店をはじめ、昔ながらの「うまくて安い」庶民の店が軒を連ねています。その中の「てんぐ」という、どて焼きと串カツのお店に入ってみました。

どて焼き(牛スジの味噌煮を串に刺してある)と串カツは1本100円で、串カツはソースにつけて食べるのですが、二度づけは厳禁です。写真を撮ろうかなと思ったのですが、正面で串カツを揚げているお兄ちゃんがコワモテで、大阪弁でどやされそうな感じだったもので、ついに撮れずじまい。今回は肝心な写真は全然撮ってないと妻からクレームが。

でもやはり旅はいいです。どんなに下調べをして行ったとしても、実際には来てみなければわからないことだらけです。

前回の京都に続いて、大阪も1泊ではありましたがいろいろと刺激を受けました。これからも、気になったら即行動、フットワークを軽くアクティブに何ごとにも挑戦していきたいと思いを新たにした大阪の旅でした。
| デザイン紀行 | 11:06 | comments(0) | trackbacks(0)
京都紀行 俵屋旅館編
写真だけアップしてそのまま放置しており失礼しました。

俵屋旅館は書き始めるとこれまた桂離宮よりも長くなりそうなので、ほんのさわりだけにしたいと思います。

俵屋についての情報は長年にわたって少しずつ仕入れていたのですが、やはり実際に泊まってみなければ、本当のよさはわからないものだなあとつくづく思いました。

俵屋のこだわりというか、居住性というか、美意識は、いわゆる一般的に「高級老舗旅館」と呼ばれるもののそれとは全く別ものであるように感じます。伝統的でありながら、ただ単にそれを固守するのとはまったく違う革新性がそこここに見られ、300年以上続いている宿とは思えないホスピタリティと、あくまで控えめな中に、究極のこだわりをもって一つ一つに心と技を砕いているその姿勢がかいま見え、本当に心地よい、そして私にとってはわくわくするような時間を過ごすことができました。



中京区麩屋町通りにある俵屋の入口。この通りの向かい側には京都三大旅館の一つ「柊屋」があります。残りのもう一つ、「炭屋旅館」もすぐ近く。



通りから一歩引き込んだその右奥には再び吹抜けの空間が。決して広い空間ではないし、それどころかロビーもなければ大旅館のような玄関すらないのに、すでにここはもう別次元。



ここの沓脱ぎ(くつぬぎ)には江戸時代からの風情が残っている。ここを上がって建物の奥深くへと導かれる感覚が何とも言えない。



玄関前に飾ってある屏風や装飾は3月のもの。俵屋では毎月すべての客室と館内の美術品を入れ替える。



通りから最初の引込みのところには芍薬(それとも牡丹?)



玄関を上がって中央の吹き抜けの坪庭には、見事な桜が。入口の引込みのところもそうでしたが、建物内部の薄暗がりから光射す坪庭へ「暗から明へ」と導く仕掛けが絶妙。



今回泊まった部屋は旧館にある「霞(かすみ)」の間。建築家中村好文さんもお薦めということでしたので、電話での予約時にリクエストしてみたところ、最初はふさがっていたのを特にこの部屋のご指定ではないからとわざわざ変更してくれました。部屋に入るとガラス窓の向こうの青竹の緑にまず目を奪われます。



踏込みの次の間にある木製天板がL字になって右奥の8畳までのびています。そのL字部分がガラスの開口部となってこの霞の間に解放感をもたらしています。

奥の8畳では、正方形の床の上に小さな壺、正面の花器には椿が何気ない感じにさしてありました。その横には桜の軸。一つ一つが決して主張しすぎない中に品格がある。俵屋のすべてがそんな感じです。ちなみにこの部屋のしつらいについて、ちゃんと美術品の名と作者を書いた資料が置いてあったのですが、実測にうつつをぬかしすぎてチェックするのを忘れてしまいました。



この書斎机のようなカウンターの下は、掘りごたつ式になっていて、床暖房がいれてありました(カーペット敷き)。座椅子は別名「ベンツ座椅子」と呼ばれる俵屋オリジナルのもの。もちろん座り心地も満点。



坪庭を見おろすとこんなかんじ。




4畳の次の間と8畳の本間を仕切るのは屋久杉の一枚板。天井高は約2100。この屋久杉の開口高も窓の上端も1700を切っていますが、圧迫感はなく、このミニマムさ、視線の低さが逆に落ち着ける空間をつくっているのだと思います。中村好文氏は「繭玉のようなぬくぬくとした居心地のよさ」と言っておられますが、本当にそんな感じがする居住性でした。




ガラスの内側に雪見障子が隠れています。下に1段残っているのは、ここからの景色を一番きれいに切り取れるようにという女将の判断らしい。ここの女将は他の旅館のように客の前には姿を現しません。しかしこの俵屋のしつらえ、建築普請、庭つくり、オリジナルの家具や照明、布団その他アメニティ等に至るすべてを、第11代当主である佐藤年さんという女将が取り仕切っており、彼女のディレクションで現在の俵屋が成り立っていることは村松友視著「俵屋の不思議」に詳しい。



そして雪見障子の奥にはカーテンが。ここの新館を設計した吉村順三氏は「日本家屋にはカーテンはそぐわない」とおっしゃっていて、カーテンもちゃんと隠せる仕掛けになっています。



とにかく繊細で緻密な納まりに写真を撮りまくり、実測もしまくりました。建築家宮脇檀氏が俵屋のことを「疲れる旅館である」と評したのは、「実測がやめられない」「眠るのがもったいない」から。




次の間の天井には京唐紙が張ってありました。




浴槽は檜ではなく高野槇。高野槇という材は水気や湯気に強く、香りも良く、風呂桶の素材としては最上らしい。そして湯水が冷めにくいようにも感じた。こうして写真で見ると広く見えますが、実際はこじんまりしていて、0.75坪くらいでしょうか。浴槽のサイズ(≒L1200×W600×H610)が何ともちょうど良く、温泉ではないけどつい長湯してしまいました。



本間の壁にあるこれは何だろうと思ったら




テレビが隠れていました。テレビを前に引き出せるようになっています。




お着きの菓子は、知る人ぞ知る俵屋オリジナルのわらびもち。その味は噂に違わず、何とも言えない口当たりと柔らかさが極上の逸品でした。



夕食のおしながき。弥生の献立です。
ひと品ずつ出てくる懐石料理はどのくらい時間がかかるのか尋ねてみると「1時間半程かかります」と仲居さんがおっしゃったので、そんなにかかるのと思いましたが、食べ終わってふと気付くとちょうど1時間半経っていました。料理はどれもびっくりするような派手さはないが、一品一品丁寧に料理され、盛り付けられたいい料理だったと思います。器もすばらしかった。日本旅館について書かれた本に「俵屋の魅力はボディブローのように後から効いてくるところだ」とありましたが、本当にすべてがそんな風で、控えめだけど実は凄いみたいな、それが俵屋です。



朝食の湯豆腐にはこれも俵屋オリジナルである湯豆腐桶が登場。手前の穴の中には炭が入っていて豆腐とつけだれを温めている。




ロビーはない俵屋ですが、客室のほかに宿泊客が利用できる部屋がいくつかあります。ここは女将の夫で写真家であり、大学教授であった故アーネスト・サトウ氏の書斎を再現してあるメモリアルルームで、「アーネストスタディ」と呼ばれています。午後5時より11時まで、宿泊客はここでコーヒーを入れて飲んだり、インターネットをしたりすることができます。そこには何とウェグナーのベアチェアが置いてあってびっくり。そして老舗旅館の中にこんな部屋が、しかも全然違和感なく存在していることにもびっくり。窓の向こうの緑は屋根の上に施されているという。



アーネストスタディの奥には、1段下がった5角形のこんなスペースも。ここが本当に落ち着ける、巣ごもり感覚の居心地のよさで、何時間でも過ごせそうでした。



桜が見事な坪庭の奥のラウンジ。ラウンジと言っても本当に小さなスペースです。何度も言いますが、その小ささが落ち着きと居心地の良さを与えているのです。奥はライブラリーですが、その入口は「にじり口」のよう。



ラウンジの右側には年代物のお雛様。



ライブラリー内部。これこそ中村氏の言う繭玉の内部。




旧館から新館のほうへ行く廊下の横に「庭座」と呼ばれるスペースがあります。庭を眺めながらくつろげるこの場所は、ちょうどエアポケットに落ち込むように寄り道したくなる心憎い趣向であると「意中の建築」の中で中村氏は述べています。




廊下の一角にある俵屋グッズのショップ。食事の際に使われている陶磁器類からスリッパ、寝巻、アメニティなど俵屋ワールド一色。



数あるオリジナルグッズの中でも特に家内が絶賛していたのが、石鹸。これも女将である佐藤年さんが、20年前に俵屋らしい香りや形をした石鹸をつくりたいと花王(株)と共同でつくったものだそうで、実際に買って帰った石鹸の箱の中には、「..ベルガモット、ローズ、サンダルウッド、ジャスミン、パチュリー、ラベンダー、ラブダナブなどの天然香料に、ムスクなどの香り、二百余種類をブレンドして完成したもので、このように天然香料をふんだんに使った石鹸は日本では唯一のものであり、花王(株)にとっても特別の製品でございます」と書いてあった。確かに洋風でも和風でもない何とも言えないよい香りで、私は気付きませんでしたが、その香りが寝具や食事の際に出るおしぼりにもつけてあったらしい。使用感もしっとりとして、風呂上がりなど残り香がほんのりと香って気持ちいい。

「俵屋の不思議」によれば、金色の紙で丁寧に包装され、和紙の箱に鎮座するこの石鹸をお土産にもらった人が、お菓子と間違えてお茶受けに出してしまったことがあるという。なるほどそれで、箱に入っていた紙にひと際大きく「本品は食品ではありません」と書いてあったのだ。


俵屋旅館を単なる古い町屋の旅館だと思ったら大間違いです。世界の文化人たちがその宿帳に名を連ねる理由は、数寄屋という日本固有の建築文化を残しながらも、現代のホテルのホスピタリティを兼ね備え、新しい創意を加え続けていることにあると思います。帰り際に若い仲居さんが「常にどの部屋かが改装されている状態ですので」と言っておられた通り、常に新陳代謝を繰り返しているところに俵屋のすごさがあるのです。


ほんのさわりだけと言いながら、結局長くなってしまいました。本当はこれでもまだ半分も書き足りてはいませんが、この辺で終わりにしておきます。


俵屋では、旅館のすぐ近くに、グッズを購入できる「ギャラリー遊形」というショップと、その隣で、これまた素晴らしいたくさんの北欧家具(フィン・ユールのものなど私的には垂涎ものばかり)に囲まれてゆっくりとくつろげるサロン・ド・テというカフェを営んでおられます。もちろん佐藤年さんプロデュースなので、小さなところまで俵屋ワールドが行きとどいています。このサロン・ド・テではあの「わらびもち」も食べることができるんですよ。そのご紹介もまたあらためて行いたいと思っていますので、またまたお楽しみに。
| デザイン紀行 | 18:03 | comments(0) | trackbacks(0)
京都紀行 桂離宮編
江戸時代初期、八条宮智仁・智忠親王父子が別荘として造営した桂離宮。
初代・智仁親王は、幼少時に豊臣秀吉の養子となるが実子の誕生により解消され、のちに兄・後陽成天皇からの譲位の申し出も徳川家康の反対で実現しなかった。「ならば王朝文化の再興をめざそう」と、桂離宮の普請に後半生を捧げ、池に張り出す「月見台」など、独特の造形を生み出した。

素材を選び抜き、それぞれの持ち味を最高に生かした建築。技巧の限りを尽くしながら、さりげない表情をみせる庭園。誇らしげな美よりも慎ましやかなものに価値を置く美意識は、「日本美の極致」と讃えられてきた。

その美意識を心ゆくまで堪能したいと期待を膨らませて拝観に臨んだのだが、何しろ宮内庁によって厳しい管理・運営がなされていて、数十人ずつグループになって、ぞろぞろと引率役の宮内庁職員さんのあとを付いて行かねばならず、挙句のはては、桂離宮の中枢をなす御殿内部は全く見ることができなかったのは残念であった。しかしそこまで徹底した管理をしていればこそ、この美しい離宮を後世にまで残すことができるのだろうと他の見学者の方たちとなぐさめ合いながらの約1時間の拝観でした。ちなみに予約をして、当日も本人の確認ができなければ拝観はできませんが、入場料は無料でした。

それでは見学コースの順を追って桂離宮をご紹介します。


表門(おもてもん)


桂離宮の正門。檜丸太を門柱とし、割竹を木賊(とくさ)張りにした門扉と袖垣をもつ。この表門は特別の場合以外は開けられることはないので、私たちはふだんの出入り口、黒御門という入口より入場します。


御幸門(みゆきもん)


表門の奥、砂利道を50メートル程入ったところにある。ここを入ると右手に小石を敷き詰めた霰(あられ)こぼしの御幸道が御殿へと導いているが、途中で左へ枝分かれしており、コースはそちらから池に沿って時計回りに進みます。


御腰掛(おこしかけ)


枝分かれした御幸道をさらに左に飛石で路地に入ると御腰掛がある。寄棟茅葺き屋根をくぬぎの皮付丸太で支え、吹き放しで二間の腰掛と砂雪隠(すなせっちん)がある。



砂雪隠内部。その名のとおり、砂が敷いてありました(特に穴が掘ってあるわけではない)


そして御腰掛の前を横に走る敷石が「行の敷石」と言われる延段である。桂離宮には真、行、草の三つの敷石があるが、真を正格、草を型にとらわれない自由な形とすれば、行はその中間である。

行の敷石(ぎょうのしきいし)



洲浜(すはま)


御腰掛から苑路を進むと突然視界が開け、水辺に近く降り立っているのに気がつく。黒く扁平な石を敷き並べた洲浜が池に突き出して、先端には灯籠を据え、岬の灯台に見立てて海の景としている。その先の小島を石橋でつないで天の橋立に見立てている。その向こうに見えるのが松琴亭だ。


松琴亭(しょうきんてい)


松琴亭は桂離宮でもっとも格の高い茶室です。松琴亭へはにじり口へ向けられた石橋を渡って行きます。この石橋のところから右手に池辺に下りる飛石があり、写真では分かりにくいですが、飛石の先、池水に配される四個の石は、水桶を載せ、柄杓を配し、池の流れを吸込海に見立てた「流れのお手水」と称されている。


石橋


長さ6メートル、幅65センチ、厚さ35センチほどの切り石を渡したもので、石は京都白川辺の産とされる。この日は雨が降ったり止んだりの天気だったこともあり、結構渡るのには慎重を要した。引率の係の人が、口を酸っぱくして「移動中は写真を撮らないよう」注意していたが、確かによそ見していたら落っこちそうだ。


松琴亭一の間


松琴亭は茅葺き入母屋造り、池に面してくど構えを持つ。一の間は床、厨子棚、石炉のある十一畳。床貼り付けと二の間境の襖の、白と濃い青の市松模様は優れた意匠として知られています。矩(かね)の手に折れて西向きにある石炉は寒さを防ぐ暖炉であり、茶事に供される料理の保温にも用いられたそうだ。石炉の先には杉のへぎ板を網代に編んだ建具がある。

この一の間から北に庭を見ると、茶事をしながら庭を見れるよう、また客の目の前で料理して供されるよう、庭に面したところにくど構えをしつらえてある。普通は裏手にひっそりつくられるであろうかまどを正面に据えるなど、大胆で斬新な、何とも粋なはからいである。

一の間北側のくど構え


くど構えの下に敷いてある石の色に注目してほしい。小石も飛石も青と白の組み合わせになっているこの憎いまでの演出。コーディネートという言葉が薄っぺらに感じられてくる。


松琴亭二の間


二の間は六畳。半間の違い棚がある。棚上と襖の青はだいぶ色あせているものの、当事はかなり鮮やかなブルーであったであろうことを思うと、奇抜ともいえるその斬新さはどこからきたのだろうか。

屋根の妻に「松琴」という後陽成天皇の筆による扁額がある。


これ自体は複製に置き換えてあるらしいが、桂離宮のポケットガイドによれば、「もとの額は材そのものもつくりも粗末かつ稚拙で、御手製かと疑われるほどである。それをかえって大事に離宮内最高の格をもつ茶室に掲げる心が桂離宮なのである」とある。贅をつくしてありながら、簡素を良しとする、統一感があるようで実は色々なものが雑然と同居している、そういう一筋縄ではいかないところに、桂離宮の魅力があるのだと思います。


賞花亭(しょうかてい)


ここは離宮のなかでもっとも高い位置にある峠の茶屋風の茶室である。



ここからみる山の端の形は、日本昔話のそれに似ている。


円林堂(えんりんどう)脇の飛石


賞花亭を下りると円林堂の脇に出る。ここの飛石はモダンだ。屋根から落ちる雨水を受けるために、小石を帯状に細く敷き詰めた雨落石(あまおちいし)にからんで、左右に揺れながら縫って走る正方形の飛石。桂離宮は飛石だけでも見ごたえ十分で、下ばかり見て歩いていたような気がする。


笑意軒(しょういけん)


笑意軒は茅葺き寄棟にこけら葺きの庇をつけた屋根で、深い土庇を持つ田舎屋風の茶室です。




一の間、中の間、口の間、次の間、膳組の間などがあり、中の間南面の腰壁張付けは、舶載の市松模様ビロードを金箔が鋭く切り裂く斬新な意匠で有名。




草の敷石(そうのしきいし)


笑意軒の前に敷かれた延段が「草の敷石」と言われるもの。御腰掛にあった「行の敷石」と比べると違いがよくわかる。



御殿古書院の月見台


桂離宮の中枢をなす書院群は、東から古書院、中書院、楽器の間、新御殿と、雁行形に連なって立ち並んでいます。古書院には、池に面して月見台が設けられ、中書院は、一の間、二の間、三の間からなり、楽器などを格納していた楽器の間もある。

しかしこの御殿の建物は、内部はもちろん外部も遠巻きに見ることしかできませんでした。

智仁親王が桂離宮の中で最初につくったのがこの古書院であり、古来より月の名所とされていた桂の地に(平安時代には藤原道長も別荘を構えていた)月を最大限に美しく観賞するための舞台としてつくったのがこの月見台。従って軒の出も、庇が視界を邪魔して月の観賞の妨げにならないよう短くつくってあるし、舞台に座った時に、水面に映る月を美しく観賞できるよう、手すりのような囲いも一切ない。建物そのものが、いかに月を美しく観賞するかというその一点でデザインされている贅沢。

日没後、この舞台に座って池の向こうにいずる満月を、そして水面を揺らす満月を愛でてみたい...それは叶わぬ夢ですが、本当に桂離宮のすばらしさを体感できるのは、月夜でなくてはならないのだと思います。


新御殿


新御殿は、智忠親王が後水尾上皇をお迎えするために増築された建物である。参考文献によれば、一の間の南に櫛型窓の付書院をそなえ、その脇に棚板、地袋、袋棚を巧みに組み合わせた桂棚と呼ばれる違い棚があるらしい。この棚は、修学院離宮の霞棚、三宝院の醍醐棚とともに天下の三棚と称されている。なお、昭和51年から平成3年にかけて各書院及び茶室の解体大修理が行われ、古い柱や梁などの部材をそのまま用いて再び組み上げてあるそうだ。


月波楼(げっぱろう)


古書院に近い池辺の高みに建つ茶亭が月波楼。月を見るのによい位置にあり、正面右手の部屋は、池を眺めて見晴らしが良く、正面奥の座敷から北を見ると池は隠れて見えない趣向である。


池を眺める中の間の窓。池の向こうに見えているのは松琴亭。青と白の市松模様もこの窓から眺められる。


こちらは刈込みの上に紅葉山(もみじやま)が見える一の間の窓


舟底天井


よしずを並べた野地を竹木舞で押さえ、中央を曲木の束一本で支えて軽い印象を与える工夫がなされている。


中門


参観の順路は御幸門から御幸道を途中で左折しましたが、そこを折れずに御幸道をまっすぐ行ったところに中門があり、ここを入ると斜め前方に向けて「真の敷石」と言われる石畳が御輿寄に延びています。


御輿寄(おこしよせ)


真の敷石(しんのしきいし)


この石畳が「真の敷石」。ちなみに中央にある石は「留石(とめいし)」と言って、ここより先には入ってはいけませんという意味を持つらしい。この先が書院の表玄関なわけですが、石段を四段上がると六人の沓(くつ)を並べられるとして「六つの沓脱」と呼ばれる白川石があります。


住吉の松


外からやってきた訪問者から、庭の内部を隠す目隠しとして植えられたもの。こうやって見えなくされると余計に見てみたいという欲求が増す...そのための演出。


桂垣(かつらがき)


桂離宮独特の竹垣。生きた淡竹(はちく)を折り曲げて編みこんであります。桂川右岸の道を250メートルにわたって続いているが、道路に面しているので、時々事故の被害をこうむっているという。


穂垣(ほがき)


桂垣とともに桂離宮の顔であるもうひとつの竹垣。


一筆箋


参観記念に一筆箋を買いました。左から松琴亭の市松模様、書院襖障子の月の字をかたどった引き手金具と桐紋、御輿寄せ前庭の「真の敷石」、そして随所にみられる網代の意匠の五種類の図案が裏面に描かれています。
 
あ、それから「月の桂離宮」という写真集付きDVDも買いました。
あー月夜の桂離宮を肉眼で見てみたい。




最後に、引率された宮内庁の職員さんとその御一行。もっと一つ一つをじっくりと見て回りたかったというのが本音ですが、もし機会があれば今度は秋の桂離宮も体験してみたいです。

ここまで長々とお付き合いいただきありがとうございました。
桂離宮、行ってみたくなったでしょ。

次は俵屋旅館をお楽しみに。
| デザイン紀行 | 10:56 | comments(0) | trackbacks(0)
京都紀行
桂離宮を見に行きたいと、この10年位ずっと思いながら、宮内庁管轄のその御殿は参観予約が必要で、インターネットでの予約は3か月前でもすぐに一杯になってしまうため、ずっとそのままになっていました。今年の年明けに、桜が咲く頃にと往復はがきで申し込んだところ3月29日の参観予約がとれまして、マイルもたまっていることだしと、一泊で京都へ行って参りました。
今日は順を追って春まだ浅い京の旅をご紹介したいと思います。


まず最初は、京都駅にほど近い東寺(とうじ:世界遺産)へと足を運びました。


五重塔




この現存する日本最古の五重塔は、826年の弘法大師の創建ですが、しばしば災禍を受け、焼失すること四回。現在の塔は、1644年徳川家光の寄進によって竣工したものだそうです。総高55mというのは木造の建築物としても日本一の高さで、京都のランドマークタワーとして、新幹線の車窓からもすぐに目に入ると思います。内部は非公開だったので外部しかみれませんでしたが、極彩色に彩られた密教美術を見てみたかったです。落雷に弱いため4度の焼失を経ていますが、地震で倒壊した記録はないそうで、これは五重塔の塔身が各層ごとに、軸部・組み物・軒を組み上げ、これを最上層まで繰り返す積み上げ構造になっているから。柔構造で、地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれ弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動することになるので、倒れようとする力より元に戻ろうとする復元力の方が大きく、地震に強いと考えられています。


御影堂(大師堂)




かつて司馬遼太郎は、「京都の寺院を歩くには、平安最古の遺構である東寺の境内を出発点とするのがふさわしく、古い形式の住宅建築である御影堂を見たのちに他の場所に移って行くのが京都への礼儀である」と書いていると立札に記してありました。彼は空海の住房であったこの御影堂の建物がもっとも好きだといい、知人との待ち合わせも御影堂を指定する程だったそうです。「身は高野、心は東寺におさめをく」と言った空海の言葉とともに、この場所にいると不思議に落ち着くような、また何度も来たいと思わせる何かがあるところです。ちなみにここで、今年大学4年になる息子の就職成就を祈願して、護摩焚き用のお札を納めて参りました。


観智院客殿




客殿内部は、上段の間、次の間、羅城の間、暗の間、使者の間からなり、上段の間には、宮本武蔵筆の「鷺の図」「竹林の図」が描かれています。ちょうど吉岡一門との決闘を果たしたころに、武蔵はこの観智院に逗留していたらしく、これらの作品はその頃に書かれたものだそうです。奥にあった書院や茶室もすばらしく、東寺の奥深さに触れるとともに、司馬遼太郎でなくとも、東寺が好きになりました。

その他にも国宝の金堂、重文の講堂、宝物館などを拝観し、空海直筆の書などもたくさん見ることができました。「弘法も筆の誤り」ということわざがあるほど達筆の空海ですが、何となく人間くさい味を感じてしまったのは私だけけしょうか。


ここ東寺では、毎月21日の空海の命日には「弘法さん」と呼ばれる市が立ち、境内には千軒以上の露店が並ぶそうです。今度は是非21日に訪れてみたいものです。




数年前に移植された樹齢百数十年という不二桜。ソメイヨシノはまだ3分咲きでしたが、このしだれ桜は満開でよかった。




境内を歩き疲れて立ち寄った茶店でぜんざいセットを食べました。ほうじ茶と塩昆布があと口にちょうど良い塩梅で、疲れも吹き飛んだ午後でした。



そのあとは、豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立したという高台寺へと足を運んだのですが、ここの近くには坂本竜馬をはじめとする幕末の志士の墓所があります。昨今の歴史ブームで、若い女性やカップルで高台寺界隈はかなり賑わっていました。その流れに乗りまして、まずは二年坂、三年坂をぶらぶら。




春休みということもあって、たくさんの人でごった返していました。




左が坂本竜馬、右が中岡慎太郎のお墓です。京都霊山護国神社から小高い丘を登ったところにあります。




同感です。あの時代にあれだけのフレキシビリティを持てたことは、本当にすごいことだと思います。




歴女たちがあっちにもこっちにも一杯で、何だか古都京都も桜とともにえらく賑やかな雰囲気に染まっていたような。

ちなみに墓所の麓にある霊山歴史館は、幕末維新ミュージアムとして竜馬暗殺の現場「近江屋」の模型やその時に竜馬を切ったとされている、桂早之助の刀などが展示されていました。予定外にそんなところまで見学していたら、肝心の高台寺を見る時間がなくなり、本日の宿への入り時間が遅くなってしまいそうだったので、急きょタクシーで宿へと向かいました。


というのも、マイルを使って交通費が浮くならば、宿泊は思い切ってずっと行きたい行きたいと憧れさえ抱いていた、日本が誇る名旅館「俵屋旅館」に宿をとることにしたのです。そうなれば日のあるうちにチェックインして、写真を撮ったり、実測等しなければならないことがたくさんあるもので。


しかし、長くなりましたので、俵屋についてはまた次回ということで、今日は終わります。桂離宮もあるし、京都後篇はまた今度。

| デザイン紀行 | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0)
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